現在、無数の流派が存在し、世界中で親しまれる空手だが、正確な意味での「空手」が誕生したのは、昭和に入ってからのことである。 空手誕生以前、すなわち空手の原形である“唐手”や“手”と呼ばれる武術が、 まだ琉球(現在の“沖縄”)という限定された地域の武術だった時代を語る時、判で押したように語られる逸話がある。
「唐手とは薩摩藩によって武器を取り上げられた琉球の人々が素手で戦うために生み出した“反抗の武術”である」 というものだ。

昭和初期の唐手部の稽古風景 |
唐手がこのように言われてきたのは、以下のような理由による。
●素手による格闘技である。 ●薩摩藩から隠すために、型稽古中心となった。
●薩摩藩に見つからないように、稽古は隠れて行われた。 しかし、これらは被征服者である琉球民族の反抗を恐れた日本人の勝手な思い込みによるところが大きいようである。 では、それぞれの項目について、実際はどうだったのであろうか。
●素手による格闘技である。 唐手(空手も含む)が素手のみの武術であるなどというのは、現実を無視した勝手な思い込みと言うほかない。琉球には唐手の両輪としての武器術が存在し、特に棒術は目覚ましい発達を遂げた。
●薩摩藩から隠すために、型稽古中心となった。 時々、空手の入門書には、征服者(日本人)に武術の練習であることがバレないように踊りの練習に隠したなどと書かれているが、これには特に確証はない。むしろ唐手の稽古が型を重視したのは、唐手の直接の先祖である中国拳法の稽古法を取り入れたから、と見たほうが自然だ。
●薩摩藩に見つからないように、稽古は隠れて行われた。 これも中国拳法の影響である。隠れて稽古を行なったというよりも、むしろ拝師(内弟子入門)した者以外には教えなかった、というのが実情に近いだろう。つまり、誰もが唐手修行をできたわけではなく、例外を除けば、基本的に富裕な階級の者しか学ぶことができなかったようなのである。
唐手は伝承された地域、技術のスタイルから大きく分けて、『首里手』、『那覇手』、『泊手』の3つに分類された。首里は琉球の首都であり、武士階級に普及した。また、那覇、泊はそれぞれ貿易港があり、多くの中国人が出入りしたため、武術の伝承が盛んに行なわれたという。 ちなみにこの3種の分類は伝承地域、技術系統の分類であり、流派ではない。空手に流派が登場するのは、もっと後年になってからである。
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首里手 (しゅりて)
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首里手は棒術と拳法の名人・などを生み出した系統であり、中国北派拳術の影響を濃く受けているといわれている。松村宗棍は薩摩の示現流も学び、「空手の巻藁突きは、薩摩示現流の“立ち木打ち”をヒントに、松村が始めた」とも伝えられる。この松村宗棍をはじめ、首里手からは後に船腰義珍(ふなこし・ぎちん/松涛館流創始者)、さらにその弟子に大塚博紀(和道流創始者)が出たため、後の四大流派のうちの二流派が、この首里手から発生したということになる。 |
那覇手
(なはて)
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那覇には福州からの帰化人が多く、また、那覇の港は貿易港として栄えており、多くの中国人が行き来していたため、武術の交流も盛んに行なわれていたようである。 那覇手は中国南派拳法の影響を強く受けて発展した。宮城長順(みやぎ・ちょうじゅん)が所有し、剛柔流に強く影響した「武備誌」はまさに南派拳法の教本であり、その強い関係を表している。 那覇手からは上地流や劉衛流などが出たが、中でも最大派閥として発展したのは、宮城長順によって創始された剛柔流である。 |
泊手 (とまりて)
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一説によると、山東省からの漂着民が伝えたと言われているが、確証はなく、首里手や那覇手に比べると歴史背景はかなりあいまいである。技術的には「チャタンヤラのクーシャンクー」などの型を残しているが、代表的な名人である松茂良興作でさえ、首里手と並行して学んでいたりと、泊手のみの伝承者は少なく、事実、本土空手が広まった時に純粋な泊手が広まることはなかった。 |
空手衣は空手の立派なユニフォームではあるが、材質、作りの違いはあっても、そのデザイン、帯のシステムなど柔道の影響を多大に受けている。 沖縄時代の唐手には特に決まったユニフォームなどなく、当時の写真を見ても上半身は裸で、バミューダパンツのようなズボンや短いモモヒキのようなものを着ていたのがわかる。では、いつから今のスタイルになったのか。

船越義珍(ふなこし・ぎちん) |
大正11年、東京において体育展覧会が行なわれ、これに沖縄県も参加し、唐手を初めて公の場において公開することとなった。この時に沖縄の代表として演武を行なったのが、船腰義珍であった。 この体育展覧会を見た柔道の嘉納治五郎の招待により、船腰義珍は講道館においても演武を行なうことになった。さらにそれからしばらくの間、講道館において空手の講習会も開くこととなった。 この時に借りた柔道衣が後に空手衣へと変化した。しかし、講道館における柔道との交流は、その後から今にいたる空手の運命をも決定づけたようだ。 よく「空手は突き蹴りの武道であり、投げたり逆を取ったりするのは空手の技ではない」、「古流の空手には投げや極めもあった」といった言葉が聞かれるが、このように言われるようになった発端の一つに、この柔道との交流がかかわっていたのは間違いないらしい。 これから本土に唐手を根付かせようという時に、大同小異の技を見せても仕方がない。本土にはすでに投げや極め技を追求する柔道が存在する以上、柔道にはない、突き蹴りの武道として空手を広めたほうが、当然、有利なはずである。
空手の技や型には確かに、突き・蹴りに使用するものが多い。しかし、中には投げや逆技と解釈しなければ説明がつかない技、突き蹴りにも使用するが、投げや逆技にも使用できる技、さらに武器を持てばそのまま武器術となる技も多い。そうした空手の武術としての汎用性が喪失、もしくは表に出なくなった理由の中には、本土に唐手を広めるうえでの事情があったようである。
その後、昭和10年、船腰義珍によって「唐」の字が「空」へと改められることとなった。これは当時の日中関係の事情からによるもので、中国を示す「唐」という文字は適切ではないという判断から、般若心経の「色即是空」より「空」の文字が取られ、今日我々が使う「空手」という言葉が誕生したのである。 こうして次第に空手は本土に浸透していったが、技術的差異や伝承系統によって細分化していくにしたがって、看板名すなわち流派名が必要となってきた。 最初に流派名を名乗ったのは、中国南派拳法の影響を強く受けた那覇手の流れを汲む宮城長順が創始した「剛柔流」である。これを皮切りに、その後、本土における空手は次々と流派名を名乗っていくこととなるが、その中でも4つの大流派を特に「四大流派」と呼ぶ。

那覇手から剛柔流を創始した
宮城長順
(みやぎ・ちょうじゅん) |

糸東流の開祖
摩文仁賢和
(まぶに・けんわ)
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伝統空手の四大流派
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剛柔流 (ごうじゅうりゅう)
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那覇手出身の宮城長順が創始。その名称は、長順所有の拳法書「武備誌」の中にある拳法大要八句の「法剛柔呑吐」から取られた言葉に由来している。 |
松涛館流
(しょうとうかんりゅう)
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首里手出身の船腰義珍が創始。義珍は本土空手の父と呼ばれるが、本人が流派名を名乗ったことはない。昭和14年、義珍の書号「松涛」を冠した道場「松涛館」を設立。その松涛館出身の義珍の弟子たちが名乗った流派名が、松涛館流である。 |
糸東流 (しとうりゅう)
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琉球唐手三系統を学んだ摩文仁賢和(まぶに・けんわ)が創始。琉球唐手のすべての技術系統を網羅した流派が糸東流である。当初は「摩文仁流」という名称だったが、賢和が大日本武徳会に“練士”の称号を授与されたときに「糸東流」と名乗ったのが最初。ちなみに“糸東”とは、賢和の師である、糸洲、東恩納の二人の名字からとった名称である。 |
和道流 (わどうりゅう)
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四大流派のなかで唯一、本土出身者によって創始された。創始者の大塚博紀は、元々は神道揚心流の柔術家であったが、船越義珍に学び、本部朝基や宮城長順とも交流。空手と柔術の長所を取り入れ、和道流空手として創始した。 |
○組手の競技化を実現した「寸止めルール」
空手を武道スポーツとして柔道、剣道に比肩しうる存在とするためには、「組手の試合化」が必須の条件であった。しかし、組手を競技化する際には“実戦性”と“安全性”の両立という、避けて通れない矛盾をクリアーしなければならない。
柔道はルールと畳、剣道は竹刀と防具を研究開発することによって、この矛盾をクリアーしたが、空手の場合はそう単純にはいかなかった。柔道の場合は地面に投げたり、関節を折ったり、また剣道なら真剣を持ったりといった具合に、それぞれ競技と実戦を連想しやすい武道であったが、生身で打ち合わない限り素手・素足を使って戦う空手の場合は、その連想が容易ではない。
そのような中で、初期の頃に最も研究されたのは意外にも、現在、“社会的認知”という点において最も安定した評価を受けている寸止め組手ではなく、「防具組手」だった。 この防具組手は、韓武館や東京大学空手道部を中心にかなりの研究が為された。一見、「打ち合えて、怪我も少ない」ため理想的に見えた防具組手だが、当時は間に合わせ程度の防具しかなく、やはり危険度も高かったようだ。
そのため、次第に拓殖大学空手部などが中心になって創案した「寸止めルール」が、時代の主流を占めることとなった。当たる寸前に技を止めるこのルールは年齢・性別を越えて容易に取り組むことができるとして、多くの流派で用いられることとなった。 後に空手の統合組織として誕生する全日本空手道連盟(略称:全空連)においても、寸止めルールは正式採用され、ひとまず競技空手は完成したかに見えた。
○武術性を失った空手と、極真の台頭
全空連の設立とともに、空手は一気に市民権を得ていくこととなる。インターハイの開催を皮切りに、1978年からは国体のデモンストレーション競技に、1981年からは正式種目として採用され、空手競技は国民スポーツとして認められるようになった。
また組手とともに、空手の伝統的な稽古法である「型」の試合も行なわれるようになった。しかし、流派門派によっては名称が同じでも動作に差異があることが多い。そのため、これを統一して判定基準を明確にしたのが「指定型」である。この「指定型」の登場で、多くの選手に試合で勝つチャンスが増え、競技人口を増やす助けとなった。
とはいえ一方では、型の実戦の妙味が崩れることを嫌い、全空連から離れていく門派もあり、また組手の部においても、寸止めルールに不満を抱く門派が徐々に現われてきた。なかでも、最も過激なまでに全空連を批判し、自流の思想を実行したのが、大山倍達率いる極真会である。

大山倍達率いる極真会館は、
フルコンタクト空手という
新しい潮流を創り出した。 |
極真会は剛柔会の流れを組むが、その組手ルールは「掴み」、「引っ掛け技」が禁じられていたため、剛柔会の血を感じることはなかった。基本的には掴み禁止(後に絶対禁止)、「顔面への手技を禁じた以外は素手・素面でどこにでも直接打撃を行なってよい」という、当時としては非常に過激なルールで行なわれた。この極真の試合は漫画・映画の題材ともなり、また格闘技色が強かったため、空手の大会としては初めて、興行としても成功。空手のワクを越えて、格闘技界を代表するほどの存在となった。
○フルコンの歴史はルール解放の歴史
確固たる地位を築いた極真会は、ムエタイとの闘い、プロレス団体との抗争など、話題に事欠かなかったが、次第に極真ルールに不満を唱える団体も登場してくる。「実戦とは何か?」を追求する団体が出てくるにしたがって、顔面パンチがない、掴みがないなどの極真空手の規制を、実戦的ではないと解釈する者も増えてきた。
その後、フルコンタクト空手は「過激なルールにすればするほど、興行的にも成功する」ということで、一時はプロレスとの境界線すらわからない団体も出てきたが、現在はおおまかに大別すれば、以下のような具合に落ち着いているようだ。
アマチュア向け顔面あり(グローブ着用)技術を追求→新空手
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| キックボクシングとの併用によって実戦性を追求→士道館 |
| ポイント制を導入して直接打撃の中での伝統技術を追求→拳道会、佐藤塾 |
| 防具付きKO制で禁じ手を極力廃止し、総合格闘技を追求→大道塾 |
| 自流独自の技術を追求→芦原空手、無門会 |
| プロ格闘技を追求→K−1(正道会館) |
| 直接打撃試合を採用した古流→沖縄剛柔流、上地流 |
*本稿は、弊社出版物・フルコンタクトKARATE別冊・格闘王NO.18 『THE KARATEDO入門〜百花繚乱の空手界を整理整頓〜』(発行:福昌堂)より、抜粋したものです。

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